表現者としてのチ○コの巻

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年末に右足を捻った影響から
スタンダップでの活動が続いております。
明けましておめでとうございます、仔羊亭たいようです。

さて、落語の・ようなもんをやってる身として、
此方のエゴや自我なんてのをぶつけるのではなく、
あくまでも笑わせることに執心しているわけなんです。

ただ、一人一人笑いのツボは違うわけですから、
全員が笑うなんてのはまずないわけです。
だから観客の反応を見ながら軌道修正し、
多数が笑ってくれるネタやパターン、
つまり“笑いの最大公約数”を把握しておきたいのです。

ここで『チ○コ』の話です。

例えば笑いの最大公約数への反応が薄い観客が、
チ○コを見せれば必ず笑ってくれると仮定します。

その場合、すぐにでもチ○コを出せるか?
いついかなるステージでもチ○コを出す覚悟はあるか?
(人前でチ○コを出す趣味が無いと云うのが前提条件です)

ステージで笑いをとれるのなら
躊躇わずにチ○コを出す“覚悟”を持つ!。
これこそが表現者としての覚悟だと思うわけですが、
勿の論、本当に出す出さないってのは別の話です。

これを表現者における第一段階のチ○コと定義します。

もちろんチ○コを出さずにすむのであれば、
それに越したことはないわけです。
ただチ○コを出す覚悟は持ちつつもチ○コには頼らない姿勢。
ここが取り敢えずの目標になってくるわけです。

いつでも心にチ○コはあるが、心の中の貞操帯に鍵を閉める。
これが第二段階のチ○コです。

しかし、ここまでチ○コ、チ○コって単語が並ぶと
アタクシが変態紳士だとバレやしないだろうか?

さて、チ○コですが、
心の貞操帯に鍵を閉める行為によって、
チ○コのことをあまり考えないようになるわけです。

それは覚悟が薄れたのではなく、
その覚悟が前提条件になったことを意味します。
これが第三段階のチ○コです。

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近況報告@2013中秋の名月の巻

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8月末から9月頭での一大イベント、
桂歌蔵・北海道寄席も無事に終了して腑抜けてました。

今年はお褒めの言葉も有り、
実り多き日々となったことを感謝しております。

アリガトウ、俺。

えぇ、感謝する相手は自分自身ですよ。
この件については自分だけのモンです。



さて、個人的な一年の始まりと終わりは、
この桂歌蔵・北海道寄席を基点としております
ですからリセットしての再スタートになるわけです。

先日16日に新たなスタートを切っての一発目、
才谷屋でのモ~リ~ズ・ブートキャンプに参加しました。
結果から云えば散々な出来でして、
函館から参加のゆうげん氏には申し訳ありませんでした。
新ネタとして「疝気の虫」を演じたのですが35点、
新たなる覚悟が出来てないまま高座に上がって、
そのままダダスベリで終了しました。

それを踏まえての翌17日に北14条の晴ル風ヤで、
本試験のつもりで深夜手前寄席と題して落語をやってまいりました。
「道灌」「時そば」「転失気」と三席。
何とかカタチに成り、ホッと安堵しながら帰途につきました。

やはり人前で何かを表現すると云うのは、
まずは心であると痛感した二日間でした。

もちろん技術的な部分は大いに関係してきますが、
覚悟の出来てないものでは人は笑わせられませんね。

笑わせられない落語者なんぞ、本当の落伍者ですよ。



桂歌蔵・北海道寄席の詳細は近々ブログでもうpします。
今までは手が回らないと云うよりやる気が出なかったもんで…。



決意表明の代わりに
『秋風のどこでも死ねる身体で歩く』

仔羊亭たいよう拝

デウス・エクス・マキナの巻

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ボコノンの書き記した第十四の書の邦題は
『思慮深い人間が、過去百万年の経験を積んだ、地球上の人類に希望できることは何か?』
と云った長ったらしいものなのだが、内容は非常に完結である。

なにせ単語一つ「ゼロ」としか書かれていないのだ。

今宵も真夜中の思考実験つづく。
ヴォネガット再読中と云うのが影響し
思考実験に出てくるガジェットが
ボコノンだったりアイスナインだったり
トラルファマドール星だったりと
カオスからスタートしているのが
現在の悩みと云えば悩みであろうか。

もちろん現実的な悩みも多く
自力では解決できかねるものもあり
余裕が無くなっているのが現状だ。
それらのダメージは身体にも出てきた。

気が付くとお尻がピリピリする
御馴染み『お尻ピリピリ病』である。

さて思考実験の方は
行き詰ると同時に
デウス・エクス・マキナ登場⇒強制終了
と云うパターンを確立した為
ダメージは致命傷止まりで済んでいる。

しかし面白いもので
“機械仕掛けの神”が毎回違い。
舞台における日替わりゲストの様相を呈している。

誰の言葉だったかは記憶にないが
「新大陸とは、旧大陸の人々にとって新しい土地があったから新大陸と呼ばれたのではない。新しい人々がいたから新大陸と呼ばれたのだ」

それが為に多くの人が新大陸に向け旅に出たのであろう。
云い換えれば新しい人に会う為に。

人生は旅である。

当然の事だが、僕も旅を続けている。
それは新しい人に会う為の旅であるのだろう。

ところで旅の終着点は何処にあるのであろうか?
あるいは何処であろうか?と云い換えてもよいが
とにかく旅の終着点を気にする歳になったのだなぁと
何だか感慨深いものがある。

最終的には自分自身が終着点と云う気がする
もう少し詳しく言えば自分の中にと云う方が
しっくりくるような気がする。

やっぱり尻がピリピリする。

或る日の“のすたるじや”の巻

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昨晩も独りで呑んだ。
酔っている際の思考実験が好きになった。
結論のグダグダ感、着地点のバカさ加減が楽しい。
呑んでない時よりも脳を動かしている気さえする。

その影響からであろうか。
目覚めてから脳が動き出すまでの時間が以前より長くなった。

朝、鈍い日が照ってて風がある。
千の天使がバスケットボールする。

中原中也の宿酔が沁みる。

今月は有難いことに、落語の出演予定が多い。
その為、ネタ下ろしに向けバタバタとしている。
意気込みとしては“一笑懸命”もしくは“いざキャバクラ”と云った感じなのだが、現実は両手両足をバタバタさせながらも徐々に潜航してゆくかのようだ。
こちらは先の思考実験どころの話ではなく、着地点さえも見いだせぬ。
そもそもソフトランディング出来るかさえも危うく、ハードランディングした場合の被害拡散を防ぐことにも注力せねば成らぬような体たらくだ。

今回下ろすネタなのだが、かなりの『曲者』である。
実は自分の記憶の奥底を引っ掻き回す作業を強いられている。
たかが43年なのか、されど43年なのかは解らぬが『のすたるじや』ってヤツを嫌と云うほど引きずり出されては見せ付けられ、少々精神的疲労が溜まってきた。

真夜中知らずにスナフキンの言葉を呟く。

いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。
理由はかんたん。時間がないんだ。

数日前のGoogleトップページがフランツ・カフカ生誕130年だった。
そのカフカの言葉では

将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。
将来に向かってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです

この言葉が一番好きだ。
これがラブレターの一節だと云うのが素晴らしい。

因みにこの文章を書きながら、並行してネタの台本修正を行っている。
なので、この文章は非常に醒めた状態で書かれている筈なのだが、推敲の段階では感情的な部分や非論理的な部分が散見される。
それはそれで面白いので、「てにをは」や細部の言い回し以外そのまま残しておく。

台本直し、まったく進まない。

気付いたら、ベテルギウスが爆発する瞬間に誰と見たいかなんて事を考えている。
在りし日のロンサム・ジョージの事を思ったりしている。
七月の明るい青空の底を唾し歯軋り行き来する、俺は独りの修羅なのだと考えたりしている。

この作業が、ある意味での『過去との決別』であることは理解していたが、『青春との別れ』でもあったのだな。

酔っ払って駅のベンチで夜空を見上げながら、そのまま帰りたくなく、ベンチから動きもせず、電車は何本も何本も目の前を通り過ぎていき、気が付くとプラットホームに独り取り残され、この線路は何処まで続くのか、ひょっとしたら銀河鉄道じゃないだろうか、なんて夢想してはみるのだが、列車内は独りきりで、何処に着くこともなく、ただ夜の景色だけが窓を流れていった、あの日の事を思い出した。

忘れてしまっていたのか。
絶対に忘れないだろうと思っていたのだが。

私は思い出より憧れの方が好きだ。

“あのさぁ”の巻

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あのさぁ
あのさぁ
あのねぇ
あのさぁ

とにかくさ 俺は君が好きだから
できることを 君は言ってくれりゃいい
空を飛べとか とんでもないことじゃなけりゃ
たいがいは 俺はやってみせるけどね
とにかくさ 俺は君が好きだから
空ぐらいは 飛んだりもできるかもね

あのさぁ
あのさぁ
あのねぇ
あのさぁ

他に人がいるなら
俺じゃなくていいしね
ニコニコしているなら
それで俺はいいから

あのさぁ
あのさぁ
あのねぇ
あのさぁ



大槻ケンヂ「あのさぁ」より





オーケンの優しさは
ハードボイルドのそれに通ず
そう気が付いた冬の夜

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