或る日の“のすたるじや”の巻

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昨晩も独りで呑んだ。
酔っている際の思考実験が好きになった。
結論のグダグダ感、着地点のバカさ加減が楽しい。
呑んでない時よりも脳を動かしている気さえする。

その影響からであろうか。
目覚めてから脳が動き出すまでの時間が以前より長くなった。

朝、鈍い日が照ってて風がある。
千の天使がバスケットボールする。

中原中也の宿酔が沁みる。

今月は有難いことに、落語の出演予定が多い。
その為、ネタ下ろしに向けバタバタとしている。
意気込みとしては“一笑懸命”もしくは“いざキャバクラ”と云った感じなのだが、現実は両手両足をバタバタさせながらも徐々に潜航してゆくかのようだ。
こちらは先の思考実験どころの話ではなく、着地点さえも見いだせぬ。
そもそもソフトランディング出来るかさえも危うく、ハードランディングした場合の被害拡散を防ぐことにも注力せねば成らぬような体たらくだ。

今回下ろすネタなのだが、かなりの『曲者』である。
実は自分の記憶の奥底を引っ掻き回す作業を強いられている。
たかが43年なのか、されど43年なのかは解らぬが『のすたるじや』ってヤツを嫌と云うほど引きずり出されては見せ付けられ、少々精神的疲労が溜まってきた。

真夜中知らずにスナフキンの言葉を呟く。

いつもやさしく愛想よくなんてやってられないよ。
理由はかんたん。時間がないんだ。

数日前のGoogleトップページがフランツ・カフカ生誕130年だった。
そのカフカの言葉では

将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。
将来に向かってつまずくこと、これはできます。
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです

この言葉が一番好きだ。
これがラブレターの一節だと云うのが素晴らしい。

因みにこの文章を書きながら、並行してネタの台本修正を行っている。
なので、この文章は非常に醒めた状態で書かれている筈なのだが、推敲の段階では感情的な部分や非論理的な部分が散見される。
それはそれで面白いので、「てにをは」や細部の言い回し以外そのまま残しておく。

台本直し、まったく進まない。

気付いたら、ベテルギウスが爆発する瞬間に誰と見たいかなんて事を考えている。
在りし日のロンサム・ジョージの事を思ったりしている。
七月の明るい青空の底を唾し歯軋り行き来する、俺は独りの修羅なのだと考えたりしている。

この作業が、ある意味での『過去との決別』であることは理解していたが、『青春との別れ』でもあったのだな。

酔っ払って駅のベンチで夜空を見上げながら、そのまま帰りたくなく、ベンチから動きもせず、電車は何本も何本も目の前を通り過ぎていき、気が付くとプラットホームに独り取り残され、この線路は何処まで続くのか、ひょっとしたら銀河鉄道じゃないだろうか、なんて夢想してはみるのだが、列車内は独りきりで、何処に着くこともなく、ただ夜の景色だけが窓を流れていった、あの日の事を思い出した。

忘れてしまっていたのか。
絶対に忘れないだろうと思っていたのだが。

私は思い出より憧れの方が好きだ。

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