表現者としてのチ○コの巻

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年末に右足を捻った影響から
スタンダップでの活動が続いております。
明けましておめでとうございます、仔羊亭たいようです。

さて、落語の・ようなもんをやってる身として、
此方のエゴや自我なんてのをぶつけるのではなく、
あくまでも笑わせることに執心しているわけなんです。

ただ、一人一人笑いのツボは違うわけですから、
全員が笑うなんてのはまずないわけです。
だから観客の反応を見ながら軌道修正し、
多数が笑ってくれるネタやパターン、
つまり“笑いの最大公約数”を把握しておきたいのです。

ここで『チ○コ』の話です。

例えば笑いの最大公約数への反応が薄い観客が、
チ○コを見せれば必ず笑ってくれると仮定します。

その場合、すぐにでもチ○コを出せるか?
いついかなるステージでもチ○コを出す覚悟はあるか?
(人前でチ○コを出す趣味が無いと云うのが前提条件です)

ステージで笑いをとれるのなら
躊躇わずにチ○コを出す“覚悟”を持つ!。
これこそが表現者としての覚悟だと思うわけですが、
勿の論、本当に出す出さないってのは別の話です。

これを表現者における第一段階のチ○コと定義します。

もちろんチ○コを出さずにすむのであれば、
それに越したことはないわけです。
ただチ○コを出す覚悟は持ちつつもチ○コには頼らない姿勢。
ここが取り敢えずの目標になってくるわけです。

いつでも心にチ○コはあるが、心の中の貞操帯に鍵を閉める。
これが第二段階のチ○コです。

しかし、ここまでチ○コ、チ○コって単語が並ぶと
アタクシが変態紳士だとバレやしないだろうか?

さて、チ○コですが、
心の貞操帯に鍵を閉める行為によって、
チ○コのことをあまり考えないようになるわけです。

それは覚悟が薄れたのではなく、
その覚悟が前提条件になったことを意味します。
これが第三段階のチ○コです。

第三段階までのチ○コとは詰まるところ
“うけなかった時の保険”或いは“卑怯な飛び道具”etc。
……云わば消極的な存在だったはずです。

しかしながら今までの剥き出しの弱々しいチ○コではなく、
自分自身で再構築したチ○コを“敢えて”人前にさらけ出す。

このように積極的な存在に進化を遂げたチ○コ。
この再構築されたチ○コこそが第四段階のチ○コです。

しかし第四段階チ○コに辿り着くと、
そこで新たなる弱々しいチ○コを見つけることになるはずです。
つまり第四段階チ○コとは、
新たなる次元の第一段階チ○コに戻ることなのです。

この一連のサイクルを
『メビウスのチ○コ』もしくは
『ウロボロスのチ○コ』と命名しても
異論は出ないことと存じます。

ここまでの『チ○コ』は勿の論ですが比喩表現です。

しかし『チ○コ』=”自分の不得手な部分”ではなく、
表現者個人にとって現状もっとも安易かつ卑怯な方法論。
と、置き換えていただきたいのです。

安易かつ卑怯な方法論と云うのは、
実は得意な部分と密な関係にあると思っています。
つまり個人的には得意な部分を伸ばすことこそが、
表現者としてのより良い成長であると考えています。

例えば得意を『山』、不得手を『谷』と定義するなら、
得意な部分を伸ばすことは『山』に土を盛る行為にあたります。
当然『山』はより高く、より大きくなるのですから、
観客側も明確に『山』が大きくなったと感じるわけです。
しかし、不得手の克服。
つまり『谷』を埋めても『山』には変化がありませんから、
観客側は成長ではなく停滞と捉えるはずです。

そんな考えもあってか、
自分自身も含め表現者の悪いところを指摘するのではなく、
誉めどころを探すようにと考えているのです。
もちろん傷の舐め合いや馴れ合いにならぬようにと、
胆に命じながらではあります。

ここ数日、チ○コを中心に考察することで、
自分の行く先が明確になったと考えております。
もちろん“現時点”での行く先であるのは承知の助です。

しかしながら現時点での行き先だったとしても、
自分の中心でブラブラと揺れる柔らかいチ○コではなく、
天に向かってそびえ勃つ雄々しいチ○コであることも
おそらくは間違いない事実なのです。


文責 仔羊亭たいよう

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